東洋医学の歴史と学び方について

「東洋医学の歴史」と「傷寒論の成り立ち」

中国古代医学は紀元前400年頃に体系化されたと言われています。
はじめは、自然現象の観察を整理して得られました。
紀元前200年頃、人間の生理、病理、鍼灸術等の集大成として「黄帝内経」と
薬物学の書物である「神農本草経」が編纂されました。

西暦200年頃張仲景が「傷寒雑病論」を著し、中医学は一応の完成をみました。
張仲景の一族は、もともと200人余りいたのですが、西暦196年以降
10年もたたないうちに3分の2が死去し、しかも、そのうち傷寒にかかって
命を落とした者が10人に7人もいたので、発奮して傷寒雑病論を著しました。
(傷寒とはインフルエンザや腸チフスなど悪性の流行病の総称)
傷寒雑病論はその後、傷寒論と雑病(急性感染症以外の慢性疾患)を取り扱った金匱要略(きんきようりゃく)に分離され、現在に至ります。

日本には7世紀の初頭に中国大陸から中国医学が招来し、
以来16世紀頃までは中国医学を模倣していました。
日本の東洋医学が独自の方向を目指したのは16世紀以降でした。
京都の曲直瀬道三という方が、中医学を基に自分の経験を融合させた医学を作り、天皇、貴族、武将など有名人の多くに知遇を得、多数の弟子も集まりました。
その道三流は、中医学を基に自分の経験を加えたもので後世派と言われました。

しかし、後世派も末流になると、中医学の理論に泥酔し、空理空論に走り、
事なかれ主義に墜落するような弊害を生じるようになりました。
そして、後世派(中医学)は空理空論ばかりで現実的でないと主張し、
医学革新を起こした方々を古方派と言います。

古方派は、傷寒論を中心に実証的な医療を提唱、
その後、日本の東洋医学は傷寒論を中心とした古方派が中心となり、
道三が作った後世派は(中医学)は次第に衰退していきました。

また、16世紀後半以降西洋医学が日本に入ってきて、蘭方と呼ばれました。
18世紀に、杉田玄白らの「解体新書」が刊行されると蘭方は勢力を得て、
19世紀頃には漢方と対立するようになりました。
蘭方の種痘やモルヒネ等の薬物により、病気の症状がめざましく改善されるため、徐々に信頼を得るようになりました。
明治維新以降、富国強兵策と西洋文化一辺倒の社会風潮の下に医学は西洋医学
に変わり、漢方は明治8年以降、法律上存続しがたい状況に追いやられました。

終戦後に鍼灸師の国家資格制度がはじまり、法的に職業としての地位を確立。
ただ、鍼灸の大家の先生方からは「本来の東洋医学は、優れた師に弟子入りし、
長年かけて1人前になる師弟制度があったのである程度の質が保てた。
しかし、国家資格になり免許をもらって身分が保障されると、生活のために
十分に修行をせずに開業する人が増えて質が落ちた」との声も聞かれます。

中国における東洋医学の学び方

傷寒論を学ぶために必要なマクロな視点は、中国や日本における
傷寒論の立ち位置の変化を全体像を見て把握することが大切です。
中国では昔から現在に至るまで、傷寒論は中医学の医師として学ぶべき40冊
ほどの古典のうちの1冊という位置づけです。
傷寒論と40冊ほどの哲学、理論、技術を説明した古典を学ばないと弁証論治
(四診により弁証、治療法則を立て、鍼灸や漢方を処方して治す方法)が出来
ないので、今でも医師を目指す人はそれらの書物を読むそうです。
ただ臨床的にはいくら書物を読んでも、本から得た知識を使いこなす
経験や知恵や直観がないと意味がないと思います。

日本における東洋医学と傷寒論の学び方の変化

日本では、江戸時代には武士や医者や公家の家に生れたら、
子供のうちから4書5経(論語、中庸、易経等)を学んでいました。
そして後世派が盛んだった16世紀までは、西洋医学がなかったので、
東洋医学の医者があらゆる病気を治療していました。
後世派は、中医学をベースにしていたので、黄帝内経素門、霊枢、難経、太素。
傷寒論、金匱要略。神農本草経。鍼灸甲乙経等々を学んでいたようです。

しかし、16世紀後半になり、古方派により中医学が否定されたので、
黄帝内経4部作は読まれなくなり、治療の理論と診断、漢方を学ぶためには
傷寒論1冊読めば事足りるという風潮に変化していきました。

明治以降、文明開化で西洋文明を学ぶことが主体になり、江戸時代、武士等の
支配階級のたしなみであった4書5経を学ぶことはなくなってしまいました。
また、西洋医学が正当な医学になり、東洋医学が法的に追いやられてからは、
東洋医学の施術者が医者でなくなり、傷寒論を学ぶ人は少なくなりました。

そして、戦後の免許制度により、鍼師、灸師、あん摩マッサージ指圧師、柔道整復師と東洋医学が細分化されるも、鍼灸学校でも古典の土台をしっかり教えるカリキュラムがないので、鍼灸師で傷寒論を学び、それを臨床に活かして治療する人はほんの一握しかいなくなってしまいました。

東洋医学の深さ

以傷寒論には以下のような文章があります。

「漢方医学は聖賢の教えであってこの教えを実践することがすなわち[術]で
ある。医術といい、医は仁術と言うときの術はこの意味であって、治療手技に関する技術は、すでに教えの中に説かれているのである。」

「成賢の教えである漢方医学は、現代医学のような単なる科学的知識でなく、医療を通じて人生をまっとうする所以の道であるから、この教えを忠実に実践することが直ちに[医道]を顧み行うことである」

「故に漢方医学はすなわち医道の教えであり、医師はこの具現者たるべきでる」


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