予防医学研究所ニュースレター
2011.3.18 |
皆さんお元気ですか。先日ユダヤ教のラバイ(教師)ベニャミンさんが、東北関東大震災の被災者を助けに仙台に行くというので、それに同行して地震から3日後の仙台市の南に位置する岩沼市(仙台空港の近く)に行ってきました。今回はその体験についてお話しいたします。 現在ベニャミンさんの本を書いていて、彼がユニークなことをするときには一緒に行くことにしております。そして今回は、「仙台に行って地震で困っている人を助けに行く」といいます。そういわれても、すぐ仙台に行きたいとは思えませんでした。しかし、妻にそのことを話すと、一緒に行ってみたらと言います。そこでようやく行ってみようと思いました・・・。 日曜日の深夜12時にベニャミンが車で迎えに来て、彼の日本人の親友(彼の実家は仙台の近くの岩沼市にあります)と3人で交代して運転しながら、国道4号線を仙台に向けて走り出しました。仙台へあと100キロほどの福島県郡山市付近で「仙台」と書いた札を持った青年がいたので、一緒に行くことにしました。彼の実家は東松島市にあり、旅行で福島に来ていたら被災した。交通機関がないのでヒッチハイクして自宅まで帰る途中であるとのこと。テレビでは、仙石線の駅と電車が津波で粉々になっている映像を観ましたが、実家はそのあたりだとのことで話す言葉が見つかりませんでした。 でも東京を出るときに、果たして私たちがわずかな食料を積んで、どれだけ現地の人の助けになるかわからなかったのですが、この青年と一緒に仙台に行くだけでも来たかいがあったと思いました。
8時半ごろ妹より電話があり、「福島の原発で爆発が起きて放射能が漏れているらしい、このまま状況が悪化したら最悪の場合、東京には帰れなくなるよ。もしくは放射能を浴びて家に帰ったら子供たちも被曝してしまうかもしれないよ。早く帰ってきた方がいいよ」と言います。そう聞いて、あまり深く考えずに来てしまったと後悔しました。そこで、これから被災地に行くのに、意識がネガテイブになるのはよくないと思い、ベニャミンに相談してみました。するとベニャミンは、人を助けるときにはひどい状況の中でやらなければいけないこともある。そういうときには、ネガテイブなことに焦点を当てずに、目の前の困っている人にできることをしていく。正しい行いをしていれば必ず神様が奇跡を起こしてくれるので、何も問題はないと言います。まさに神がかり的な発想ですが、この状況で引き返せないとしたら、そう考えて前向きにやるしか自分の不安を取りのぞく方法はありません。しかし、不思議なものでそう考えると不安もなくなり、今できることをやるしかないなと思いました。 そのように考えていくと、自分の問題も見えてきました。それは、仙台に行こうと思ったわけは、本のためにいい原稿が書けそうだから、妻が行くといいと言ったからというような、あやふやな意識だったことに気づきました。そして、何かをするときは「なぜやるのかという目的意識が大切である」ということを思い出しました。
朝の9時ごろ仙台の南10キロほどの岩沼市に着き、まずベニャミンの日本人の友人の実家に行きました。ここは仙台空港から南へ3キロ、岩沼市役所から北へ500メートルぐらいのところにあります。海からは5〜6キロ離れていて、津波の被害はなかったようです。地震の揺れの影響で町の所々で壁が崩れたり、ガラスが割れたりしていました。友人の実家も壁が崩れ、玄関のドアや窓があきっぱなしになって、ひどいところは立てつけが悪くなって元に戻りません。また室内は仏壇がひっくり返り、本棚が倒れて部屋の中は足の踏み場がない状対でした。 お隣さんに話を聞くと、3日間電気も水道もガスも来ない状態で、先ほどやっと電気が通じたとのこと。水は市役所に行くと自衛隊の給水車が来ていて、昨日は3時間行列してもらってきたとのこと。また水道が流れないのでトイレが使えず、夜の闇にまぎれて地面を掘って用を足しているとのことで、空き地には用を足した後のトイレットペーパーがところどころにありました。また食料を買うのにもスーパーには長い列があるとのこと。 次に岩沼市役所に行って持ってきた食料品を渡し、何か手伝えることはないかと尋ねると、ボランティアを募集していると言われました。そこで、ボランティアの受け付けに行くと、オーデトリアム(大きなスポーツ施設)が避難所になっているのでそこでお手伝いをして下さいと言われ、ボランテイアの登録をしました。 市役所を出て目的地に移動しようとすると、目の前に小さな体育館があり、自衛隊と警察の車が何台も止まっています。地元の人に何が起きているのかを尋ねると、海沿いの集落で津波によって亡くなった方の遺体が100体ほど集められてきているとのこと。
岩沼市のオーデトリアムに着くと、電気がないので昼間なのに真っ暗でした。ですから入り口の近くなど光が入るところに、約100人ほどの方々が避難して生活されていました。
食事をした後、同行した日本人の方が「父が経営していた工場が海岸沿いにあるので見に行きたい」と言います。そこで「でも、津波の被害を受けたところへ入れるの」と尋ねると「それはわからないけど行けるところまで行きましょう」というので出発しました。 海岸から3キロほどの所から、見渡す限り田んぼが海のようになっていて、あたり1面に瓦礫の山と破壊された車が流されており、被害のすごさを感じました。海から2キロほどのところには、高さ30メーターぐらいの大きな石油を備蓄するタンクが流され、海のようになっている田んぼに倒れていました。また無数の車が破壊された状態で道や海のようになった田んぼに放置されていました。時々破壊された家も見かけました。 海岸に近づくにつれ、まるで戦場のようにあらゆるものが破壊されています。このような光景は見たことがないので言葉を失いました。それは、暖かい部屋でテレビを見ているときは安心でしたが、徹夜でドライブしてきて心身ともに疲れ、寒い中で壊滅的な光景を見ると言葉を失いました。 海岸から1キロほどの二ノ倉橋のところに自衛隊のトラックと装甲車がブロックしていて、津波警報がまた出たのでそれ以上は入れないようになっていました。迷彩服の自衛隊員が10人ぐらいいて長い棒を持っています。そのあたりは集落があったところで、津波の水が引かずに海のようになっている、がれきの中から人を探しているようです。自衛隊の方が言うには、今日工場の敷地内で遺体が2体ほど見つかったとのこと。 友人のお父さんが経営していた工場は目と鼻の先に見えましたが、完全に破壊され骨組みしか残っていませんでした。友人のお父さんが努力して築き上げてきた工場が、1瞬でなくなってしまった光景を見ると、何ともいえない悲しい気持ちになりました。
自衛隊の人と話したあとにベニャミンが、私は遺体を運ぶのを手伝うから、軍隊の人にそう伝えてほしいと言います。私と友人は顔を見合わせてしまいました。自衛隊の人に一般人が手伝うとは言えないなあとためらっていると、ベニャミンは「心配するな、私はいつも遺体にお祈りをして慣れているから大丈夫だ」と言います。彼は至って真剣なのですが、服もいつものタキシードを着たままです。自衛隊の人に相手にされないだろうなあと思い、日本ではこういう事態で遺体を収容するのは自衛隊の仕事だから、ベニャミンの気持ちはわかるけど通訳できないと言うとあきらめてくれました。
「もう少し海の近くまで行ってもいいですか」と尋ねると、自衛隊の人も津波警報が出ているのにここまで来るのはわけがあると思ったようで、津波警報が出たらすぐ逃げられるよう消防隊員と一緒なら、もう少し行ってもいいよと言ってくれました。そこで、あと50メートルほど海の近くまで行き、破壊された工場を近くから見に行きました。 工場は10メートルほどの高さですが、3分の2ぐらいまで壁が破壊され、津波のエネルギーと大きさを感じました。またかろうじて倒壊を免れた家も2階のところまで水が来た線がのこっていました。この状況で屋外にいたらまず助からないし車で逃げても津波に巻き込まれたらおしまいです。海岸から1キロ離れているところでこうなのですから、海岸沿いに建物があったらひとたまりもないなと思いました。 海岸を後にして、これからどうしようかということを話し合いました。避難所の人手は足りていて私たちがいてもあまり手伝うことはありません。今絶対的に不足しているのが食料品をはじめとした物資です。そこで、1回東京に帰って食料を積んでまた来ようということになりました。 3時ごろ岩沼市を出発して、4号線を東京へと向かいます。途中で福島から仙台の学校に通っていて被災し、交通機関がなくってヒッチハイクしていた学生さんと福島市まで一緒に行くことになりました。 東京まで360キロあるのに残りのガソリンは200キロしか走れません。ベニャミンは、神の意志にそって正しいことをしているので、必ず奇跡が起きるから大丈夫だと言います。宮城から福島に行く途中の開いているスタンドは長蛇の列、ひどいところは1キロ以上並んでいて、とても給油できる状態ではありません。しかし、ベニャミンは必ず奇跡が起きるから大丈夫だと言います。福島県の郡山を過ぎたころで燃料計のメーターはゼロを指し、あと5リッターしかありません。 東京まではあと200キロはあります。そのころ原発の被害を避けようと、東京方面へ行く車で国道4号線は混雑してきました。ノロノロ運転をしているとガソリンがどんどんなくなってしまうので、いったん車を止めて、ご飯だけの夕食を取りながらどうするか話し合いました。 するとベニャミンは、ガソリンを寄付してもらおうと言って、止まっているトラックやバスの運転手さんにガソリンを分けてもらう交渉を始めました。しかし皆さんの同じようにガソリン不足で困っていてとても人に分ける余裕はないようです。 お礼を言って車に乗り込み、東京まで同乗させてもらいました。結局家に着いたのは深夜の2時、その日は疲れて夕方まで寝てしまいました。 翌日の昼過ぎにベニャミンに電話をしてみると、今仙台に向けて走っているとのこと。いつ出たのと聞くと朝の4時に出たとのこと。今回は日本人の友達と2人で行くそうで、みそを10キロ、砂糖を10キロ、ペットボトルの水を数ケース。その他おむつ等の日用品で、前回行ったときになくて困っていたものを持っていくとのこと。 また現地ではガソリンがなくてみんな困っていたので、タンクに60リットル入れて持っていくそうです。ベニャミンはガソリンスタンドで売る分はないと言われたのに、人助けのためだからと強引に説得して買ってきた、と日本人の友人は笑っていました。 いつ帰ってくるのとたずねると、それは未定だと言います。好奇心から、今晩どこに止まるのとたずねると避難所で寝ると言います。彼と同行した日本人の友人の実家は岩沼市にあり、大きなダメージを受けていないので十分寝泊りできます。なぜ泊まる家があるのにわざわざ避難所で寝るのとたずねると、避難所で寝泊りすると避難所にいる人達が何が必要なのかわかるから。何が必要なのかを聞いて、東京に戻ってまた食べ物や物資を持ってくるとのこと。 私は一回行っただけでクタクタなのに、必要があれば何回も行くというベニャミンの姿勢には感心させられました。日本人の私ですらなかなかそこまで行動できないのに、外国人で仙台とは何も関係のないベニャミンが日本人の被災者を助けるために奔走している姿を見て、私も出来る限りベニャミンを支援しようと思いました。 援助の仕方についてはいろいろなやり方があると思います。ベニャミンのやり方は、自分が正しいと思ったことを、自らが実践して人を助けるというやり方で、それはどんなときでも一貫しています。 お知らせ ・ベニャミンさんの活動を支援する義援金を募集しております。 ・東北関東大震災で困った人を救援している、ユダヤ人教師ベニャミンさんを支援するお話し会 テーマ「震災の3日後に宮城県岩沼市でのベニャミンさんの救援活動に同行した体験」 |